芦田川は人工の水路なのです・・・。

 

弊社の地元、福山市には、芦田川という一級河川(国が管理)が、源を世羅台地の三原市大和町蔵宗に発し府中市を経て備後灘へ流れております。

 

残念ながら新聞等で平成19年において、中国地方一級河川13系のうち34年連続水質ワーストワンと報道され、汚染率の高さが有名です。

この現在の芦田川は、実は人工の水路だということをご存知でしょうか?

 

 

ここでは、いくつかの芦田川にまつわる話を記述してみたいと思います。

現在の芦田川の流れの基礎は、1619年(元和5年)に水野勝成公が備後福山藩主として入封し福山城を築城したときに始まります。

 

領内の開発の一つとして、河川改修が行われました。
河口部に広がる干潟を干拓し農地に変え、福山城周辺への水の氾濫を防ぐため城から川を遠ざけるように流れを西寄りに改修する工事でした。

 

蛇行していた川筋を一直線にして東に付け替え、中津原で直角に南下するようにし、この曲り角に砂土手を設け二重堤防とし、水の氾濫にはこの地点で水を溢れさせ、下流の城下町を救う構造としたのです。また、芦田川の分流を大きく流して吉津川を形づくり、かなり大きな舟を通わせて物資の輸送にも役立てていました。

 

また、川底に埋もれた中世の町として全国的にも有名な草戸千軒町遺跡の 出土品については、福山城公園内の「広島県立歴史博物館」において見ることができます。

ここには、過去の発掘調査で出土した膨大な数の資料が保存・展示されていて国の重要文化財に指定されています。

 

草戸千軒の町は、芦田川の河口近くにありました。

 

ここは、海上交通・河川交通・陸上交通の交わる重要な地域経済の拠点であったようで、さまざまな物資がこの町に持ち込まれ、取り引きされていました。
陶磁器や漆塗りなどに従事する職人がこの町を活動拠点にしていたことが、出土した木簡や資料からわかります。お金を貸して利子を取る、金融業にたずさわる人もいたようです。

 

またそばには今も存在する草戸稲荷神社明王院があり、その門前町としても繁栄していたようです。
このように、洪水で埋もれる前の草戸千軒の町は、商工業の盛んな、にぎやかで活気あふれる町だったのです。