穴の海伝説  海であって、海でない??

 

現在の福山市の多くの地名が示すとおり、市の中心部のほとんどが海の中にあったとされています。

 

当社のあります地名は、明神町、東深津町(津は、港などを示す)、近くのバス停も千間土手といいます。

またその海は現在の新市町や府中市のあたりまで、深く入りくんでおり、神辺平野のあたりは、「穴の海」と称されていたと言われています。

 

その後、洪水毎に流れ出す芦田川の土砂が広大な神辺平野を形成し、弥生時代に入ると多くの人々が住み着くようになり、この「穴の海」は「穴国」として国づくりがなされていたようです。

 

伝説は神辺町に広く伝わっています。

深安郡は、明治三十一年の合併前は、深津(深く入り込んだ入江・港)郡と安那(やすな)郡といわれていました。

この安那が、『日本書紀巻七』中、日本武尊の行状を記した一節「到吉備以渡穴海。其處有悪神。則殺之」とある中の“穴海”、すなわち穴海=安那海ではないか、というのが伝承の根拠です。

 

しかし、地理学的な研究からは神辺平野にまで海が入り込んでいたことを示す証拠はなく、縄文時代中期以降の遺跡も分布していることから、芦田川付近の広大な後背湿地が洪水の氾濫あとはしばらく水が引くことなく、それもあまりに広大であったため、昔の人が「海」と表現されていたのではないかと考えられます。

なぜなら、もしそこまで海水面が高かったとしたら、草戸千軒町遺跡のある場所も完全に水没してしまい、町など存在できなかったはずですから。

 

 

一方、いまは根絶されましたが、神辺町の一角にはかつて片山病という原因不明の奇病が存在していました。
この病気の正体は貝に寄生する寄生虫だったのですが、その貝は淡水でしか生存できないことから、この神辺一体がいわゆる海であったことは否定できると思われます。


加えて、神辺には八尋という地名があります。祖母の出生地なのですが、古くは山の上に船が来ることがあったと、祖母が自分の祖母から聞いたという話を思い出します。

昔は、八尋(一尋は、大人が両手を広げた長さ)の深さの海であったため、そうした地名がついたと話していました。
約15mという深さですから、果たして海だったのか、氾濫あとだったのか・・・。

 

建設省福山工事事務所発行の「六十年のあゆみ」(昭和61年発行)という書籍に興味深い記述と写真が掲載されています。

 

洪水災害に対する災害復旧事業の記述のなかに、大正8年、そして昭和20年の大出水のため各箇所で記録的な大被害が生じた際の、当時の神辺平野の洪水写真が掲載されています(63頁)。

そして、その表題が、「穴の海を再現した神辺平野」とあります。写真は道路を残し一面が海のごとく氾濫した様子を写しています。